これほんま面白いんで うpします。
現代語訳は、ノート提出したままで 手元に無いので、またいつか。
あと、誤字脱字あると思いますが 堪忍をm(_ _)m
※軍記物語、作者未詳。原形は十三世紀前半に成立。
琵琶法師が語る"語り物"として広まった。
※木曾の山中で成人した木曾義仲は、1180(治承4)年、
以仁王の平家打倒の令旨を奉じて挙兵した。
平家の大軍を破って、1183(寿永2)年には都に入った。
しかし、粗暴な振る舞いの多い義仲は、しだいに都の人の支持を失い、
翌年、源頼朝が差し向けた源範頼源義経の軍勢に追われる立場になった。
<本文>
木曾左馬頭、その日の装束には、赤地の錦の直垂に唐綾縅の鎧着て、
鍬形打つたる甲の緒締め、いかものづくりの大太刀はき、
石打ちの矢の、その日のいくさに射て少々残つたるを、頭高に負ひなし、
滋藤の弓持つて、聞こゆる木曾の鬼葦毛といふ馬の、
きはめて太うたくましいに、黄覆輪の鞍置いてぞ乗つたりける。
鐙ふんばり立ち上がり、大音声をあげて名のりけるは、
「昔は聞きけんものを、木曾の冠者、今は見るらん、
左馬頭兼伊予守、朝日の将軍源義仲ぞや。
甲斐の一条次郎とこそ聞け。
互ひによいかたきぞ。
義仲討つて兵衛在に見せよや。」
とて、をめいて駆く。
一条次郎、
「ただ今名のるは大将軍ぞ。
あますな者ども、もらすな若党、討てや。」
とて、大勢の中に取りこめて、我討つ取らんとぞ進みける。
木曾三百余騎、六千余騎が中を、縦様・横様・蜘蛛手・十文字に駆け割つて、
後ろへつつと出でたれば、五十騎ばかりになりにけり。
そこをも破つて行くほどに、土肥次郎実平二千余騎でささへたり。
それをも破つて行くほどに、あそこでは四、五百騎、
ここでは二、三百騎、百四、五十騎、百騎ばかりが中を、
駆け割り駆け割り行くほどに、主従五騎にぞなりにける。
五騎がうちまで巴は討たれざりけり。
木曾殿、
「おのれはとうとう、女なれば、いづちへも行け。
我は討ち死にせんと思ふなり。
もし人手にかからば自害をせんずれば、木曾殿の最後のいくさに、
女を具せられたりけりなんど言はれんことも、しかるべからず。」
とのたまひけれども、なほ落ちも行かざりけるが、
あまりに言はれたてまつりて、
「あつぱれ、よからうかたきがな。最後のいくさして見せたてまつらん。」
とて、控へたるところに、武蔵の国に聞こえたる大力、
御田八郎師重、三十騎ばかりで出で来たり。
巴、その中へ駆け入り、御田八郎に押し並べて、
むずと取つて引き落とし、わが乗つたる鞍の前輪に押しつけて、
ちつともはたらかさず、首ねぢ切つて捨ててんげり。
そののち、物具脱ぎ捨て、東国の方へ落ちぞ行く。
手塚の太郎討ち死にす。
手塚別当落ちにけり。
今井四郎、木曾殿、主従二騎になつて、のたまひけるは、
「日ごろは何ともおぼえぬ鎧が、今日は重うなつたるぞや。」
今井四郎申しけるは、
「御身もいまだ疲れさせたまはず、御馬も弱り候はず。
何によつてか、一領の御着背長を重うはおぼしめし候ふべき。
それは、御方に御勢が候はねば、臆病でこそさはおぼしめし候へ。
兼平一人候ふとも、余の武者千騎とおぼしめせ。
矢七つ八つ候へば、しばらく防き矢つかまつらん。
あれに見え候ふ、粟津の松原と申す、あの松の中で御自害候へ。」
とて、打つて行くほどに、また新手の武者、五十騎ばかり出で来たり。
「君はあの松原へ入らせたまへ。兼平はこのかたき防き候はん。」
と申しければ、木曾殿のたまひけるは、
「義仲、都にていかにもなるべかりつるが、
これまで逃れ来るは、なんぢと一所で死なんと思ふためなり。
ところどころで討たれんよりも、ひとところでこそ討ち死にをもせめ。」
とて、馬の鼻を並べて駆けんとしたまへば、今井四郎、馬より飛び下り、
主の馬の口に取りついて申しけるは、
「弓矢取りは、年ごろ日ごろいかなる高名候へども、
最後のとき不覚しつれば、長き疵にて候ふなり。
御身は疲れさせたまひて候ふ。続く勢は候はず。
かたきに押し隔てられ、言ふかひなき人の郎等に組み落とされさせたまひて、
討たれさせたまひなば、
『さばかり日本国に聞こえさせたまひつる木曾殿をば、
それがしが郎等の討ちたてまつたる。』
なんど申さんことこそ、くちをしう候へ。ただあの松原へ入らせたまへ。」
と申しければ、木曾殿、
「さらば。」
とて、粟津の松原へぞ駆けたまふ。
今井四郎ただ一騎、五十騎ばかりが中へ駆け入り、
鐙ふんばり立ち上がり、大音声あげて名のりけるは、
「日ごろは音にも聞きつらん、今は目にも見たまへ。
木曾殿の御乳母子、今井四郎兼平、生年三十三にまかりなる。
さる者ありとは、鎌倉殿までも知ろしめされたるらんぞ。
兼平討つて見参に入れよ。」
とて、射残したる八筋の矢を、さしつめ引きつめさんざんに射る。
死生は知らず、やにはにかたき八騎射落とす。
そののち打ち物抜いて、あれに馳せ合ひ、これに馳せ合ひ、
切つてまはるに、面を合はする者ぞなき。
ぶんどりあまたしたりけり。
ただ
「射とれや。」
とて、中に取りこめ、雨の降るやうに射けれども、
鎧よければ裏かかず、あき間を射ねば手も負はず。
木曾殿はただ一騎、粟津の松原へ駆けたまふが、
正月二十一日、入相ばかりのことなるに、
薄氷張つたりけり、深田ありとも知らずして、
馬をざつと打ち入れたれば、馬の頭も見えざりけり。
あふれどもあふれども、打てども打てども、はたらかず。
今井が行方のおぼつかなさに、ふりあふぎたまへる内甲を、
三浦の石田次郎為久、追つかかつて、よつぴいて、ひやうふつと射る。
痛手なれば、真向を馬の頭にあててうつぶしたまへるところに、
石田が郎等二人落ち合うて、つひに木曾殿の首をば取つてんげり。
太刀の先に貫き、高くさし上げ、大音声をあげて、
「この日ごろ日本国に聞こえさせたまひつる木曾殿をば、
三浦の石田次郎為久が討ちたてまつりたるぞや。」
と名のりければ、今井四郎、いくさしけるが、これを聞き、
「今は、たれをかばはんとていくさをもすべき。
これを見たまへ、東国の殿ばら、日本一の剛の者の自害する手本。」
とて、太刀の先を口に含み、馬よりさかさまに飛び落ち、貫かつてぞ失せにける。
さてこそ粟津のいくさはなかりけれ。
ーー終わりーー
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